大根荘横の階段にエスカレーター
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| 今日の釧路 | 12月10日(土) |
| 日の出 | 6:42 |
| 天気 (5:00) | 曇り |
| 気温 (5:00) | -6.2℃ |
| 気圧 (5:00) | 1010.9hPa |
| 予報 | 晴れ時々曇り |
| 予想最高気温 | 5℃ |
| 記載時間 | 10:40 |
今朝の釧路は、8時頃から日が射しています。10時の気温は-0.2℃です。
1970年(昭45)の3月末、「よど号事件」のさなか、私は釧路から丹沢山塊連なる秦野市南矢名67の学生アパート「大根荘」に移り住みました。1階、2階各18の36部屋あるアパートでした。大学(東海大学湘南キャンパス)は、70年安保の学生運動でGW前にロックアウトされ、そのまま夏休みになって、さらに夏休みが延長され、再開されたのは10月になってからでした。
アパートは大学に近かったことから、常に住人以外の者が出入りしていましたから、その中に学生運動の中心的な人物がいたのか、あるいは、そういう疑いがもたれたのか、大家さんは、ご当局から圧がかかっていたようで(という噂だった)、大学再開という時にH電機の社員寮として売却してしまいました。それで、住人の我々は破格の払い戻し金をいただいて、各々の転居先に散りました。
それから29年後の1999年(H11)2月に大根荘を訪ねましたが、大根荘は既に取り壊されており、その横の通学路の「心臓破りの階段」だけが健在でした。そして、最近になって、その階段にエスカレーターがついた、という話を聞きました。
↑ あらためてGoogleストリートビューでチェックしてみました。画像は階段を上がったところです。階段の右側にエスカレータの青い手摺りが写っています。
↑ 階段の下の部分です。学生全員が階段の左にあるエスカレータに向かっています。エスカレーターは上り専用で、下りは階段を利用するようです。その階段の斜度が緩やかになっています。「心臓破り」はこんなものでなかったです。階段の右横には黄色い外壁のアパートがありますが、大根荘はここまでは階段に近くはなかったです。このアパートの辺りは空き地だったと思います。
このエスカレーターについては、東海大学の「お知らせ News & Events」に詳しく載っていました。← https://www.u-tokai.ac.jp/news-campus/17391/ 【引用開始】2017.03.28の記事より ・・・改修前の階段は、1963年に湘南キャンパスが開設された当時から、学生や教職員らに利用されてきたものです。斜面角度33度と急な勾配に加え、30段の間に踊り場はなく、高低差は8mもあり、学生の間では「留年坂」と呼ばれてきました。【中略】改修された17.4mの階段の傾斜は26度と緩やかになり、階段左側には新たに19.5mの昇りエスカレーターが設置されました。【引用終了】
「留年坂」については、「東海大学新聞WEB版」← https://www.tokainewspress.com/contents.php?i=1227 に説明がありました。【引用開始】斜面角度33度と急勾配で、30段の間に踊り場はない。校舎を間近にした最後の難関に、学生からは授業に遅刻しそうになることから“留年坂”、教職員からは、「登れなくなったら出勤できなくなる」と“定年坂”と呼ばれてきた。【引用終了】
なるほど、「心臓破りの階段」は時を経て、より具体的な名称がついていたのです。納得です。「留年坂」とのことですが、ちなみに私は、大根荘から転居後、バイトに明け暮れる日々を送り、この階段を上ることが徐々に減って、休学→留年→復学→中途退学と卒業以外のことは経験しました。
大根荘があった秦野市南矢名67の辺りは、Googleマップで調べてみると、南矢名2丁目になっていました。99年の段階で既にキャッチボールをやった空き地や大根荘の窓から眺めた水田風景は姿を消していましたが、現在のようすをGoogleマップの航空写真で見ると、さらに隙間なく建物が並んでいます。
最寄り駅は小田急の「東海大学前」ですが、『前』というには、駅からキャンパスまでの距離があり過ぎる感があります。大根荘の時代は、駅名はその名も「大根(おおね)」でした。1970年(昭45)当時は、国鉄チッキ(託送手荷物)がまだあって、小田急とも提携していたようで、釧路から送った赤玉の布団袋は、大根駅から大家さんがアパートに運んでくれていました。
大根荘の大家さん、ご生存されていれば100歳を越えていると思います。小田急の職員だった管理人さんご夫婦も80代だと思います。なんてたって18歳だった私が71歳なのですから、半世紀経っています。
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