汽車通のみんなは、がんばっていたのだなあ
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今朝の釧路 | 5月8日(月) |
記載時間 | 6:50 |
日の出 | 4:07 |
天 気 (5:00) | 曇り |
気 温 (5:00) | 7.9℃ |
気 圧 (5:00) | 999.2hPa |
予 報 | 曇りのち雨 |
予想最高気温 | 15℃ |
今朝の釧路は6時前から日が射していますが、昼頃から雨になって、夕方からはお日さまマークもあるという予報です。
わが家は、「雄鉄線通り」の近くにあります。通りからは、距離にして50mほどの位置です。この「雄鉄(ゆうてつ)」とは、「雄別鉄道」のことです。その線路跡を道路にしたので、「雄鉄線通り」といいます。(この通りは、ピッタリ線路跡のところもありますが、線路跡をショートカットして、新たに用地確保した道路もあって、ホントはそこは線路跡ではないのですが、便宜上、同じ呼称になっています)
「雄別」というのは炭鉱があった町です。そこから、釧路まで石炭と旅客を運んだのが、雄別鉄道です。ですから、釧路にも馴染みがありました。なので、たとえば、「〇〇武雄」という名前の漢字を説明する時、「武士のぶ に 雄別のゆうです」なんて言っていました。普通は、「英雄のゆうです」だと思いますが、釧路では「雄別のゆう」を用いる人が珍しくなかったです。
私が通った高校のすぐ近くには、雄鉄線の中園駅がありました。雄鉄線の始発である雄別炭山駅から終点の釧路駅までは、距離にして44.1km、中園駅までで40.6km(後述の時刻表に載っていました)でしたので、雄別から汽車通の生徒もいました。友人にも何人かいました。
↑ 卒業アルバムにあった雄鉄線で汽車通をしている生徒の通学風景です。画像の中央にある建物は高校の体育館で、中園駅から学校に向かっているようすです。
なんで、雄鉄線のことを書くかというと、昨日、ヨドバシ.COMの「Doly=電子書籍リーダー」を開いたら、交通公社の時刻表(復刻版)があったのです。あったという言い方はおかしいのですが、以前、ポイントで購入したものですが、すっかり忘れていました。時刻表は、1968年(昭43)10月号です。
その中に、この雄鉄線の時刻も載っていたのです。それを見ると、汽車通をするには、6時48分の雄別炭山駅発に乗って、7時41分に中園駅に着いていたのです。始業時間の1時間くらい前には、学校に来ていたのです。次の汽車だと、9時37分着ですから、これでは間に合いません。
帰りは、16時03分、17時56分、そして最終が20時19分です。部活が終わってからだと、最終だったのでしょう。そして、雄別着が21時16分です。翌朝は、また6時48分発に乗るわけですから、雄別から汽車通のみんなは、がんばっていたのです。
私なんか、高校のすぐ近くに住んでいましたので、今から思っても、なんだか申し訳ないです。部活の途中で、中園駅に隣接していた おやき屋さんに行っていましたが、きっと、汽車通のみんなからは、暢気な奴だと思われていたことだと思います。
その雄鉄線は、雄別炭鉱の閉山にともなって、廃線になりました。私が高校3年、それも卒業式に近い日という記憶があったので、検索してみたら、1970年(昭45)2月でした。47年も経ったのですねぇ。
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