キャバレー貸切
私が東京から釧路にUターンしたのは昭和50年でした。前の年、父が上京して、新宿の「三平」でご馳走してくれました。これは釧路に帰ったら、食う物に困らないなと思いました。当時、まだコンビニは普及していませんでした。デパートも18時頃には閉まっていたと思います。そして、景気も高度成長に翳りが見えたとはいえ、東京のビル建設ラッシュは続いていました。私の仕事はビル管理業でしたから、現場が増え続けるという状況でした。勤務時間は11:30~19:30でしたが、実際はパートやバイトの人達が仕事を終えてから帰宅したので、毎日、22時近くになりました。そうなると、近所で開いているのは居酒屋か寿司屋くらいなもので、食事に困ったのです。それが、Uターンのきっかけでした。
釧路に帰って就職したのは、某乳酸菌飲料会社でした。今の会社に移るまでの4年間勤めました。昭和50年4月~54年3月まででした。辞める2年前の昭和52年に漁業水域二百海里が設定されました。これは漁業の町釧路にとって大きな出来事でした。以後、国の政策で減船がすすめられ、補償金の代わりに漁業は衰退していきました。今日の本題は、その二百海里設定前の漁業華やかな時代の釧路についてです。
某乳酸菌飲料会社は、炭酸飲料も扱っていました。緑色の洒落た瓶だったので、夜の繁華街でも需要があったのです。それで、毎週水曜日の夜に社員交代で、納品にいきました。時はちょうど、「ハワイ」を筆頭に大型キャバレーが全国各地にオープンした頃です。釧路も末広、栄町といった繁華街のほか駅裏にも店がありました。我々も何度か、社会見学と称して行ったことがあります。私はまったくの下戸ですから、専らジンジャエールでした。一見するとウィスキーの水割りっぽいのですが、炭酸飲料なので腹がふくれました。まだ、ウーロン茶なるものが世に広まる前でした。このキャバレーは、客引きさんがいて、繁華街を歩いていると、「ちょうどいい!ちょうどいい!今からハッスルタイム!さあ、入って、入って」と半被(はっぴ)姿の人が誘ってきたものです。でも、その人達の姿が見えない時がありました。貸切の日です。キャバレー1軒まるまる貸し切るのです。繁華街のどのキャバレーもそうなって、サラリーマンが相手にされない日があったのです。
それは、釧路の港に船が入った日でした。幣舞橋の下には、漁船が何重にも重なって停留していました。こうなると、繁華街は活気づきます。キャバレー「ハワイ」には、「歓迎 ○○丸ご一行様」の札が掲げられ貸切になるのです。そうなると、サラリーマンはスナックにいくしかありません。そこも、キャバレーの大宴会が終わった漁師の人達が流れてくると、店の人達の態度が一変して追い出されるのです。なんたって、漁業の人達は金の使い方が違いました。
ある日、中心街はそんな状態だったので、駅裏まで遠征したことがありました。駅裏の「ハワイ」なら、そんなことはないと思ったのです。でも、ドアを開けた途端、その考えが甘かったことを知りました。店の人が出てきて、口では「ごめんなさいねぇ」と言いつつ、顔は明らかに「来んな!貧乏人!」という感じでした。でも、その時、すっかり出来上がった漁師の人が、「入れ!入れ!一緒に飲むべ」と言ってくれました。言ってくれましたといっても、こっちは芸の一つもない、冗談話もろくにできない無粋者です。後ずさりすると、こんどは「遠慮すんな!こっちさ来い!」とのお言葉でした。これ以上、意に反することは不適当と思った我々は、空いていたボックス席に座りました。店内には、大漁旗が所狭しと貼られ、漁師さん達も店の女性も熱気に溢れていて、四六時中ハッスルタイムの状態でした。
我々に声をかけてくれたのは、漁労長とか、そういう偉い人のようで、何かと話しかけてくれるのですが、騒然とした状況の中では、何を仰っているのかわからず、ただ、えへらえへらと笑っていました。船に乗ったことがあるか?と聞かれたのはわかりましたので、いつも出航の時は、朝4時に港にいって、乳酸菌飲料を積み込んでいることを話しました。すると、「お前ら、○○○○の奴らか。なんだな、そうなるとスワローズのファンだな」と、ちょっと恐い顔になりました。そこで、私が「身は売っても心は売りません。我々は長嶋巨人一筋です」と逃れました。これは、ホントのことで、なんたって、スワローズのオーナーが自ら「優勝は巨人、スワローズは2位がいい」と発したほどです。なぜかというと、スワローズVSジャイアンツで、スワローズが勝つと、翌日の職域販売で売上がガタッと落ちるのです。逆にジャイアンツが勝つと、会社の部長さんあたりが、「おおっ!○○○○さん、昨夜はありがとう。ここにいる皆んに1本ずつ置いていって」なんていうことになるのです。てな話しをすると、その漁労長風の人は、そうか、そうかとご機嫌状態でした。この時、初めて、札束腹巻きを見ました。映画では見たことがありますが、目の当たりにした迫力は、やはり違いました。「まあ、お前達も頑張れや」と言って、その札束に手をかけたらどうしょう?と思いましたが、「まあ、お前達も頑張れや」のお言葉はいただきましたが、札束に手が伸びることはなく、ビールに水割り、ジンジャエールをご馳走になって、深々とお礼をして店を後にしました。
昭和52年の漁業水域二百海里設定、それが、釧路の街を変えたのは事実です。それでも、昭和60年に倉本聰さんの映画「時計」のロケを釧路の繁華街で行った時は、通行人を止めて撮影する状況でした。それだけ、夜の街に人が出ていたのです。でも、先週の土曜日、久々に夜の繁華街を歩いた時は、タクシーの列ばかりが目に入る状態でした。釧路川に沿った道には、人影がまったくありませんでした。今、誰もキャバレーを貸し切ることはありません。そんな御仁がいないという前にキャバレーそのものが跡形もなく消えています。
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コメント
昭和50年当時の東京の様子
そして釧路の街の様子、興味深く(愉しく)拝読いたしました。
某乳酸菌飲料会社・・・○○○○(笑)
「漁業水域二百海里設定」当時、中学生でしたが言葉は覚えています。
私が住む街もそうですが、地元産業の衰退により寂れていくのを見るのは寂しい限りです。
そういえば近所の「ハワイ」もいつのまにかなくなっていました。
投稿: myu- | 2005.03.01 20:16
町が廃れていくのは、ホント寂しいものですね。炭鉱の町は、ある日を境に人が消えますが、商店街は順番にシャッターが閉まっていきます。一緒に中高生時代の思い出も閉ざされていく気がします。
街の書店は一軒だけになりましたし、映画館は隣町の大型スーパーにあるシネマ館に押されて消えました。今は友人のカメラ店と文具店に行く用事しかなくなりました。
投稿: 心太@釧路 | 2005.03.01 22:31
どうもありがとうございます。
大変面白くわかりやすい解説?でした。
幣舞橋に漁船が幾重にも泊まっていたなんて、
今の時代からは想像もつきません。。。
投稿: こっしー | 2005.03.01 23:44
福富さんのロンドンは?
投稿: ウエ | 2005.03.03 04:13
ロンドン、ロンドン、ゆかいなロンドン・・・は記憶にないんですよねぇ。
投稿: 心太@釧路 | 2005.03.03 05:24